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神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています(コロサイ1:13−14)。
人は、自分が誰に属するかによって、自分の存在が決まる。人が霊的に存在するのは、上のみことばによれば、「暗やみの圧制」の下か、神の愛される「御子のご支配の中」か、この二つしかない。サタンに属して、その圧制に苦しむか、キリストに属して、神の愛の中を生きるか、そのどちらか。前者は、罪によって死んだ者、後者は、キリストの死と復活によって、罪の赦しを受け、神に対して生きている者。前者は、サタンに売られた奴隷、後者は、キリストの代価をもって買い取られて、神の子どもとされた者。上のみことばの「この御子のうちにあって」という表現に注目。これらの違いのすべてが、あなたがキリストに属するか、サタンに属するか、すなわち、キリストにあるか、ないかによって決まる。
このことを言い換えると、すでにキリストにある者にとっては、自分の存在の源も、目的も、意味も、すべてがキリストによるものである。キリストを抜けば、あなたの存在そのものがないことになる。
御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています(15-17節)。
この真理をしっかりと自分のものにすること。そうでないと、いつも世の霊に流され、勝利のない、中途半端な生き方をすることになる。世は、キリストを認めない。世に属する者は、キリストなくして生きている。それでも、見える所では栄え、欲しい物を手に入れ、人生を楽しんでいる。それを見ていると、あたかも、人は、キリストなくしても生きて行かれるように錯覚し、キリストに属している自分が異様な存在に思えてくる。そこにこそ、サタンのわながある。
このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです(2:3−4)。
「キリストのうちに」という表現に注目。「まことしやかな議論」とは、このキリストなくして、あたかも知恵や知識があるように見える議論のこと。
あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません(6-8節)。
同様に、「むなしい、だましごとの哲学」とは、キリストを離れた所にも何か真理があるかのように思わせる教えのこと。それは、この世の単なる人の教えであって、真理であるキリストを知る者にとっては、それは「幼稚な教え」である。それらはすべて、「キリストによるものではありません」ということだ。また、次のようにも言っている。
もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです(2:20−23)。
最後の「賢いもののように見えますが」という所に注意。この世界は、それらの考えや生き方に満ちている。それに騙されないこと。私たちは「キリストとともに死んで」、彼とともに甦り、神に対して生きた者である。私たちにとって、キリストはすべてであり、彼を離れては何もすることができず、その存在の意味さえもなくなる。

