
NHKばかりではなく、日本のテレビ局は実に残酷な放送局と思います。それは、強力なテレビの力を利用して、せっかく幸福で安心した生活を送っている日本人を恐怖に陥れようとしているからです。
目的は視聴率を上げたり、政府に協力して税金を高くしようとしたり、知り合いの人が化粧品会社なので紫外線吸収剤を売るのを手伝ったりすることですが、番組は表面上、そうは見えないので、多くの日本人が「幸福な人生なのに無理に不安にする」ということをしています。
その一例がNHKの「ためしてガッテン」で放送した「太陽の光を浴びると、こんなになる!」と脅した衝撃的な顔写真で、表紙にNHKの画面を切り取って示しました。
誰でもゾッとするこの写真は、顔の片方に日光が当たった人のもので、日光の当たらなかった向かって左の顔は普通なのに、右の顔は醜くなっています。女性でなくてもこんな写真をNHKに見せられたらゾッとするでしょう。
おそらく特異体質か病気か、もしくは別の原因が重なっていると思いますが、顔に日光が当たっただけでこんなに醜い顔になるというなら、これまでも「日光に当たる危険性」が強く指摘されているはずです。
でも、この番組の効果は抜群で、多くの人が皮膚科に走り、紫外線吸収の化粧品を買いに走り、日傘、これまで日本では見かけなかった腕や顔を覆う商品などが飛ぶように売れたのです。NHKの作戦{国民を脅して、特定の業者がもうけ、国民を幸福な人生から心配の多い不幸な人生にする。それでNHKの視聴率があがり、NHKは安泰になる}が成功したのです。
夏の海岸でやけどをするような過度な日光浴や、もともと肌に問題がある人が故意に日光に当たるという特殊な場合・・・NHKの写真はごくごくまれな例を世界のどこかから探してきたと思われます・・・をのぞき、日本人は黄色人種ですからこのブログに書いたように日本に住んでいる限り日光に当たっても、特に問題になることはありません。
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先日の「温かい人生」でも書いたように、このように白人が日光を求めてリゾートで肌を焼いている写真は多くの人が見ていると思います。この女性はみんなNHKが示した写真のように醜くなっているのでしょうか??
素人を騙すということは難しいことではありません。世界60億人以上いるのですから、その中で特別な人の写真を使って脅すことはできますが、それは専門家もメディアもやってはいけないことで、オレオレ詐欺の手口とも言えます。
幸福な人生を辛いものにしたNHKはできるだけ早く訂正番組を行い、「事実ではあるが、世界でも何例かの特殊な例であり、日本人には普通は起こらないことだ」ということをはっきり言うべきです。
「温かい人生」のシリーズは、現代の日本がこのように「お金のため」に脅かす人たちが多すぎることによって、不安になっている人が多いことも強く示したいと思っています。
知識人、マスメディア、政府などの方! あなたたちは収入も安定し、生活も特に困るわけではないのですから、自分の知識や力を利用して一般の人の恐怖を煽るようなことは止めてください。そんなことをしていたら自分が寂しい人生になります。
(平成27年9月2日)
Nov 15, 2015
9 min

安保法案が衆議院で可決された後、まだ大学教授、大学生、そしていわゆる知識人を中心として「反対運動」が残り、国政が混乱している。
これほど奇妙なことはない。民主主義というものは一定の手続きをもっとも大切にするものであり、たとえ安保法案がかなりの問題を含んでいるとしても、そのために私たちは民主主義や政治活動の自由を失うわけにはいかない。
安保法案は、2012年の総選挙における自民党の公約・自民党圧勝→2014年7月の閣議決定(憲法を改正せずに集団的自衛権拡大)→2014年12月総選挙・自民圧勝→2014年7月衆議院可決→反対運動激化・マスコミも反対にまわる、という経過をたどってきた。ほぼ100%、民主的手続きをとってきた。
それにも拘わらず、「衆院審議中に憲法学者3人が「違憲」といった」、「初めて政治に口を出してよいことを知った(大学生)」、「集団的自衛権は賛成だが、安倍政権の下では反対(民主党)」など民主主義を崩壊させる理由で、こともあろうに大学教授、大学生、そして知識人、マスコミが反対している。
・・・・・・・・・
旧日本陸軍は上意下達の典型で、自由も民主主義もないとされているが、「マレーの虎」と呼ばれ、陸軍大将だった山下奉文さんはその遺書で、日本陸軍の欠陥は自由な議論がされなかったことを反省し、次のように言っている。
「自由なる社会に於きましては、自らの意志により社会人として、否、教養ある世界人としての高貴なる人間の義務を遂行する道徳的判断力を養成して頂きたいのであります。・・・(中略)・・・
従順と貞節、これは日本婦人の最高道徳であり、日本軍人のそれと何等変る所のものではありませんでした。この虚勢された徳を具現して自己を主張しない人を貞女と呼び忠勇なる軍人と讃美してきました。そこには何等行動の自由或は自律性を持ったものではありませんでした。」
日本の問題は、「虚勢された徳を具現して自己を主張しない人を貞女と呼び忠勇なる軍人と讃美してきました」ということに尽きると残している。まさに、現代の安保法制の反対運動や民主党というものの存在は、「虚勢された徳」としての「日本の空気と見かけ良心的と思われる言動」を具現して、「決定時に自己を主張しない」ことを賛美するということで、衆議院通過後の安保法案の反対運動がそれを象徴している。
なぜ、これが「温かい人生」に関係するかというと、「自分で考えたこと、自由な発言、合意された手続き」でことが進めば、陰謀も減り、突然バッシングを受けることもなく、明るく気軽な生活を送れるからだ。
現代の日本に「辛くないのに辛い人生」が多い一つの原因が、この安保法案反対にみられるように「闇でうごめく論理」が闊歩していることに他ならない。会社でも学校でも「会議では発言せず、個人の飲み方で細工する」という人が増えると、みんなが不幸になる。
かつて「貞女」と言われた淑女が陰でなにも言わなければよいのだが、表面で発言せず、自分の意思を表明しないので、陰や井戸端で大いに他人を批判するということがあった。それが自由で明るい日本社会を壊していることは確かで、その結果、辛くないのに辛い目にあっている人が多い。
現在の安保法案の反対をしている人は、「自分がイヤなら陰でもイジメる」という考えだから、なにか正当なことを言っているようでまさに「虚勢された徳」を言って社会を暗くしている。
(平成27年8月29日)
Nov 14, 2015
12 min

クラシックと言えば私たちはまずベートーベンやモーツアルトを思い出しますが、クラシックの歴史から言うと「古典派」にあたり、その次にショパンやシューマンといったロマン派が現れます。
しかし19世紀の後半になると、より自由な作曲がされてマーラー、シェーンベルグ、そして私たちにもなじみのある作曲家としてはドビッシーやストラヴィンスキーが活躍しました。しかし、20世紀の現代音楽になると、私などはややうるさく弦楽器がキーキーと音を立てている感じがします。
マーラーはロマン派後期に分類されますが、現代音楽との架け橋にもなっている人です。彼の時代に現代音楽の雄、シェーンベルグが登場します。シェーンベルグはそれまでの「オクターブ」にとらわれない「十二音音階」を創立して新しい作曲に挑んだのですが、なにしろ私のような素人の音楽愛好家にはさっぱり理解できず、ただうるさい音としか感じられません。おそらくは毎日、数時間の音楽を聴く人なら理解できるところまで行くのでしょう。
そのシェーンベルグの作曲が発表になると、非難囂々、演奏会場で大声でヤジを飛ばす人はいるわ、演奏中にわざと席を立つ人が多いわ、演奏が終わると拍手どころかブーイングが始まるといった具合でした。
音楽会は自分の意思で行くのですから、シェーンベルグがイヤなら聴きに行かなければ良いのに「自分で勝手に聴きに行ってヤジを飛ばす」というのが人間でもあります。このような性格の人は「自分が正しいと思っている」のですから、先回のシリーズで書いたように「幸福でも不幸になる」という人たちということになります。
一方、マーラーはシェーンベルグを非難する人たちに敢然と立ち向かい、あるときには身を張ってシェーンベルグを守ったのですが、あるとき、次のようにいっています。
「実は私はシェーンベルグを守っているけれど、私は彼の音楽はさっぱり分からない。しかし、彼の方が若いので、正しいかも知れない。私は歳をとっているので彼の素晴らしさが分からないのだろう」
つまり、マーラーはシェーンベルグの音楽を高く評価しているから彼を守ったのではなく、「理解できない」のに守ったのです。つまりマーラーにはマーラーの正しさがあり、シェーンベルグにもそれがあるのです。だから、マーラーは「私は彼が間違っていると思うけれど、たぶん、私の方が間違っているのだろう」と考え、彼の保護のために行動をしていたのです。
臨終の床で「ああ、私が死んだあと、だれがシェーンベルグを守ってくれるのだろう」といっています。偉い人は偉いですね。相手が間違っていると感じるのは自分が間違っているからだと思って、実際に意見が異なる相手を守るというのは相当なものです。
ところで、最近、ある音楽家からマーラーとシェーンベルグの入ったCDをいただき、聞いてみましたが、一部の曲を除いて、私はタダうるさいだけで良さは分かりませんでした。でもそれは私の理解力が不足しているからです。
(平成27年8月26日)
Nov 13, 2015
9 min

ある日から(私の著書に事実を詳細に書いたが)、朝日新聞が「リサイクル反対」から「賛成」に変わり、キャンペーンを打ち始めます。それをきっかけにNHKや他のテレビ局が追従、半年ほどで日本社会はそれまでとまったく逆の方向に走り始めました。
女性の進出と脅し商法は「ゴミ問題」から顕著になったのですが、リサイクルで特定の焼却炉メーカーが巨利を得たこと、ペットボトルなどの消費量が飛躍的に拡大したこと、それまで地道にやっていた「ちり紙交換」の業者が一網打尽にやられて廃業し、お役所に取り入った特定業者だけが紙のリサイクルでぼろもうけをするという結果になりました。
また、紙のリサイクルでは日本の森林の利用率が落ち、山は荒れ放題になり、他国の森林を傷めるという結果を招いたのです。でも、朝日新聞を中心としたマスコミの「良い子報道」によってリサイクルがもたらした酷い状態はまったく報道されず、国民は、分別の苦労、ゴミ収集の頻度の低下、地方税の増税(もしくは減税できない体質)、役所と特定業者のとの癒着、日本のゴミを開発途上国に出して国際的な顰蹙を買う・・・などが「冷たい日本」を作っていきました。
隣の家からでたゴミを隣組の監視員がゴミを開いてみて、私生活を覗く密かな楽しみを生み、「ゴミは少ない方が良い」という奇妙な道徳観念を生んで、主婦は家の前に置くゴミの量をできるだけ少なく見せるようにするまでになりました。
人間が使ったものは必ず何らかの形でゴミになるのですが、さまざまな利権と報道が事実を報道せず、監視社会が生まれたという結果になりました。
リサイクルの利権が一渡り終わると、少し手の込んだリサイクルに進む人たちと、温暖化利権に向かった人たちがいました。一般のプラスチックなどと異なるさらに悪質なリサイクルがペットボトルのフタとワクチンが組み合わさったもので、少しの常識があればこのリサイクルが異常であることがわかるものです。
ともかく、「リサイクル」という美名で「悪徳商法」と「庶民の苦労」が日本社会の中にはびこり、不合理なことを隠しながらやるのですから、「暗い社会」、「冷たい社会」をもたらしました。
役所は市民に「分別しろ」と命令し、分別したものが「再利用」されているかを明らかにしないとか、分別した物を一括して燃やしても「サーマル・リサイクル」と読んだり(ヨーロッパですら禁止されている呼び名)、もともとリサイクルに出すと少しのお金やトイレットペーパーがもらえたくず鉄、アルミ缶、紙などもお役所と特定の業者が独占して、逆に税金を払うと言う事態になりました。
よく中国の悪口などを言う人がいますが、日本のリサイクルほど一般国民に負担を強い、税金を取り、特定業者がもうけるという社会悪が「道徳」の名の下に行われているというのは驚きです。
でも、「冷たい社会」とはこういうことの積み重ねで起こり、次第次第に「人をバッシングする風土」、「精神的に弱い人がうつになる危険性の増加」、「自殺の増加(ほぼ世界一のレベル)」を生んできたような気がします。
本当にリサイクルができ、ものを大切にできるなら、データはオープンになるでしょうし、第一、「繰り返し使えるようになった」のに、「捨てていた時代」より多くの税金がかかると言うこと自体が奇妙なのです。
このリサイクルを皮切りに、女性の不安感と脅し商法は日本社会に定着し、ダイオキシン、環境ホルモン、オゾン層破壊、日光浴の危険性、高血圧、コレステロール、植物油、そして温暖化と際限なく繰り出されるようになりました。
これらの問題はもともと存在しないか、あるいは逆に私たちの生活や健康を脅かすことになり、周囲からの多くの脅迫で、精神的に弱い人はうつなどになり、人生を失っていきました。
知識人、指導者、マスコミなど日本をリードする人たちの心はどういうものなのでしょうか? 第一に自分はリサイクルもダイオキシンも関係がないということです。所得は高く、持ち家か高級マンションで、分別は奥さんがしますし、形だけ「文化人」、「環境を大切にする人」ぐらいの印象を与えておけば、特に社会の流れに背く必要はありませんし、「儲け」というのがある程度の「裏の操作」を伴うこともよく知っています。
第二に、主として東京に住んでいるある意味での特権階級の人は、自分たちの生活を悪くしてまで「日本のため」とか「未来のため」に何かを考えるということは必要がありません。特権階級にいると言うこと自体が「現在の体制を維持した方が良い」ということですので、多くの改革は自分たちの生活を危うくするだけで得にならないからです。
朝日新聞、NHK、そして東京に住む知識人が組んで、徐々に日本に不道徳な考え、非日本的な道徳、村八分的な空気を次々と作り出したことが、「締め付けられるような社会」を作り出したと思われます。
少し前までは、自由にゴミを捨て、電気を使い、ドライブを楽しんでいたのに、そしてそれは今でもアメリカやフランスなどでは普通のことなのに、日本は分別し、ゴミの収集日は減り、節電をし、ガソリンは使いにくくなる・・・まるで「お犬様の時代」に逆戻りしたような息苦しさを感じるようになったのです。
あののんびりした生活、ゆっくりした時間、他人を認める日本の生活をもう一度取り戻したいものです。
(平成27年9月27日)
Nov 12, 2015
12 min

女性の社会進出や家庭での女性の発言権が増大するにつれて、「脅し商法」が1990年代から急激に激しくなりました。女性は男性と比較すると慎重派で危険に対して敏感で、しかも将来は別にして1990年代はようやく女性が社会に進出を始めた時ですので、「そんなことはないよ」というようなチェック機構が働きにくいというところもありました。
まず第一は「リサイクルしないとゴミ箱が満杯になる」というものでした。日本は物質の生産量が約20億トン、そのうち、どんなに頑張ってもリサイクルできる量は5億トン、さらに産業ではなく、家庭を経由するゴミは5000万トンぐらいしか無いのですから、いくら頑張っても40分の1、現実にはその100分の1しかリサイクルできていないので、家庭の主婦が一所懸命やってもゴミに行かずにもう一度使っているのは実に4000分の1にしかなりません。
でも主婦にしてみれば、生産工場を見たこともなく、エネルギーが消失していくのも目に見えず、目の前の台所のゴミは一日で袋一杯になったりするので、「これは大変だ」ということで分別を始めました。
もちろん、意味の無いことですから、夫は「そんな馬鹿らしいことをしてもダメだ」と言って夫婦喧嘩が絶えない家庭も多かったのです。もちろん、リサイクルしなければ廃棄物貯蔵庫が満杯になるなどはウソですし、リサイクルのおかげでペットボトルの販売量は急増、自治体は焼却炉を作る必要がなくなり仕事が楽になり、単に税金を上げれば良くなった(500億円が3000億円に増えた)だけのことでした。
知識と思考力がなければだまされるのは仕方ないことですが、臨調をやった土光さんの奥さんは昔型の女性でしたが、社会を見る目があり、「家庭では節約、社会は発展」と言われ、家庭の考え方を社会にそのまま適応できないことを戒めています。だから、多くの家庭婦人がリサイクルや分別をして、環境を汚し、税金を上げたのはやはり女性の社会の経験が少なかったということになると思います。
今では考えられないことですが、リサイクルは当初「資源を多く使う」という正しい考えが支配的でした。当時は「ペットボトルがこれ以上増えたら廃棄物貯蔵所の寿命が短くなる」という正しい認識が一般的でした。「廃物貯蔵所が一杯になって場所がない」というのではなく、「廃棄物貯蔵所の寿命が短くなって、新しい廃棄物貯蔵所を作るお金がかかる」という妥当なものでした。
ところが、社会の裏に2つの動きがあったのです。一つが「ペットボトルをもっと売りたいという産業の思惑」、もう一つが「棚段式の焼却炉は効率が悪いが、既得権益があるので守りたい」という動きです。この二つの動きは産業としてはそれほど倫理に悖るというものではありませんでした。
会社は社会的なことをそれほど強く考慮する必要はありません。たとえば、エアコンのメーカーが「エアコンで生活するのは問題だ。自然の風で生活するべきだ」としてエアコンの生産を止めてしまうのはやはり産業としては行き過ぎです。自由な社会では、「自然のなかで生きる」ということを目指した産業もあれば、エアコンの性能を良くして快適に過ごしてもらうと言う産業もあって、その中で国民が選択していけるからです。
ペットボトルはどこでも飲料を飲めますし、それまで女性が「お茶くみ」というのを担当していたのが無くなるというメリットもありました。だから、「廃棄物貯蔵所の寿命が短くなるからお金がいる」というのと、「ペットボトルを自由に使って快適な生活をする」というのではどちらが良いか分からないからです。
ところが、ここに朝日新聞が登場します。朝日新聞は自らの販売部数を増やすために、女性をターゲットにして「脅し商法」に踏み切ったのです。
(平成27年9月26日)
Nov 11, 2015
12 min

先回、子供を教育するときに、数学から音楽までまんべんなくできるようにさせず、数学の好きな子供は数学、バレーボールの好きな子はバレーという教育にした方が相互に比較をすることもなく、子供は好きなことを勉強できるので良いという私の考えを書きました。
それとは矛盾するのですが、良く、「人間はなにかの取り柄があるから、頑張れ」と言われることがありますが、はたして人間には取り柄があるのでしょうか?
一体全体、「取り柄」というのはどういうことを言っているのでしょうか? 普通は「人より優れている」というようなことのようです。たとえば、「彼は勉強は苦手だが、運動は得意だ。特に短距離は彼の取り柄だ」というと、勉強は「人よりおとっている」が、運動は「人より優れている」ということを暗に意味しています。
しかし、「人より優れる」ということが良いことなのでしょうか? このようなことを耳にすると私は「人は他人と比較することによって価値が生まれるのか?」と疑問になります。
たとえば女性の方で子供を産み、一所懸命育てることができれば、それでとても立派な人生で、下手にスポーツ万能で東大を出て人の上に立ち、自分だけは豊かな生活をしている人に比べれば、その女性の人生はとても素晴らしく立派であることは間違いありません。
人間も他の生物も同じですが、毎日、楽しく生活ができればそれが最高で、なにもその人が誰かと比較して優れているかどうかなど全く関係もありません。
一度、フィンランドの大使館との関係があり、その時にフィンランドの人が「フィンランドの大学では合格や不合格、成績順などはありません。卒業したら森に入り他人との関係があまりありませんから、比較すること自体が無意味なのです」と言われたことが忘れられません。
そして、「人と比較しないと人間は頑張らないと思うかも知れませんが、オリンピックの選手、ノーベル賞、作家などを比較しても人口比で日本とフィンランドと同じぐらいか、フィンランドの方が多いぐらいです。人間は人と比較しなくても才能があれば開花するし、才能が無くても同じなのです」と言われました。
「取り柄」というのは「楽しく毎日を生きることができるか」ぐらいはありますが、その他の取り柄などはないし、「人より優れている」というのはそれ自体が欠点ではないかと私は思うのです。
でも、多くの若者が小学校から高等学校にかけて「取り柄はなに?」、「あなたの長所は?」と聞かれ続けて、「自分には取り柄がない」とションボリしている人を見かけます。そんな時、「取り柄なんか無いに決まっているじゃないか」と言うと、それだけで顔が輝いてくる学生も実際にはいます。
私は最近、テニスを始めました。本当は走るとか歩くということでも運動ができるのですが、私は男性でもあるので闘争心があり、テニスをうまくなりたいとか、勝負に勝ちたいという無意味な衝動があり、それを利用して体を鍛えたり、楽しみにしたりしています。
テニスをするということは私の人生を豊かにする「道具」であり、決して「目的」ではありません。まして人に勝つなどはつまらないことなのですが、私の心に闘争心がある限り、それを利用することはできます。でも、「利用」しているだけで、その結果が私の人生に影響があるわけでもないのです。それは私がテニスのプロであってもそうで、テニスをすることですでに目的は達成されていて、勝つとか負けるというのはおまけのようなものです。
「他人と比較しなければならない」という強固な日本人の信念は小さい国にひしめき合って住むようになった明治以来のことで、わずか170年ほど前までは日本にも特殊な人以外はなかったことだったのです。
(平成27年9月20日)
Nov 10, 2015
11 min

赤ちゃんはみんな、明るく元気で、親がちょっと目を離すとすぐいたずらをします。それが実は「人間」、つまり「私たち」で年齢を重ねたからと言ってそんなに大きく変わるものではありません。
40歳の人も70歳の人も、ともにヤンチャで悪戯好き、何事にも本当は興味津々で、おかしいことがあれば声を上げて笑いたいのです。ところが、小学校に上がる頃からあんなに元気だった子供が、少しずつ少しずつ、目に見えないスピードで変化し、だんだん元気がなくなります。
それは現在の教育というものが「人間を対象にしていない」ということによります。一人の人間を「国家のために貢献させなければならない」という強い使命感が教育関係者にあります。「日本のために役立つ人間とは」というのが常に議論され、あるときには(高度成長期)、個性のなく一定のことが集団でできる子供たちを育てました。小学校から「これは学ばなければ進級させない、進学させない」というものでがんじがらめにして個性を捨てさせました。その結果、日本としては大成功をして世界が驚くような成長を成し遂げました。それはそれで評価が分かれると思います。
その代わり、「何でも言われたとおり」という人だけで社会が構成され、「空気」だけに従って一斉に行動するということになりました。今から40年前「石油がすぐ無くなる」と誰かが言うと、全体を見渡すことなく、「トイレに行けなくなる」と思ってトイレットペーパーを買いあさったという現象になりました。
でも、人間というのは、数学が得意な人、詩を理解できる子供、ピアノがうまい子、バレーボールは才能があるけれど100メートルというと全くダメという人など千差万別です。それを強制的にやらせて、おまけにあるレベルまで来なければ合格させないという残酷なことをするのです。
よく「数学嫌いでも数学は必要だ。数学的な考えは人生にとても大切だ」と数学の先生が言われるものですから、私が大学の管理をしている時に、「数学がどのように人生の考え方に影響を与えるのか?」を聞きに行きましたが、ほとんどキチンとした説明はありませんでした。数学の先生に辛い言い方ですが、私に説明する態度と言い、話の内容と言い、とても「人格者」と呼べないような人たちでした。
数学がまったく役に立たないと言うことはありませんが、数学の代わりに国語を勉強したらどうなるか、歴史は必要か、地学はどうか・・・と聞いていくと、とどのつまり「その先生が数学が得意だったので、他人より優越感を味わった」と言うことなのです。
子供が学ぶべきことを、現実に子供が勉強できる量の2倍から3倍を準備し、子供の特徴に合わせ、興味に合わせて学ぶことができるのが良いと思います。わかりやすく言えば、バレーボールでも陸上でも選べるということです。
数学が非常に好きな子供は200人に一人と言われていますが、それでも日本全体で50万人が数学が極めて優れているということです。英語でもなんでもそうですから、「読み書きそろばん」程度を越える、二次方程式とか、虚数、細かい歴史の年号などは好きな子供だけにするのが人間というものを認めた教育でしょう。
そうすればとても温かい、人の得意な分野を尊重する社会になると思いますし、人との比較をしなくてもそれぞれのことをやれば良くなると思います。
(平成27年9月18日)
Nov 9, 2015
9 min

サラリーマンになると複数の同僚や時には後輩との競争になり、どう見ても自分より劣ったり、ゴマをすっているばかりの人が評価され、悔しい思いをすることがあります。人間の心は弱いもので、自分の人生は会社の人のような他人とは関係がないのですが、「他人が評価してくれないなら、自分の人生を捨てる」という奇妙なことが良く起こるのです。
ちょうど、中学校ぐらいの時に先生に酷いことを言われたことを苦にして、勉強が手につかなくなって、そのまま立ち上がれずにぐれてしまう場合と似ています。もちろん先生が生徒に酷いことを言うのは問題ですが、先生はすべて人格が優れているとは限らないので、そのぐらいの不運は乗り切らなければならないのですが、なかなかそうは行きません。
考えてみると、「先生の人格が低いから自分がダメになる」というのは実に奇妙です。もともと人格が低いのですから、そんな人の影響を受けるのは馬鹿らしいことで、むしろ反対に人格の高い人に影響を受けるべきなのです。
つまり、人格の低い先生になにか言われたからといって自分の人生をダメにしたら、何をやっているか分からないからです。でも、人間はこんな矛盾したところがあり、いくら頭で「あんな奴の言ったことにとらわれるな!」と言い聞かせても、繰り返し頭に浮かび、悔しくてたまらないということになるのです。
それが学校の先生ならまだ分かるのですが、日常生活であまり利害関係の無い人でも、何か言われると気になってしょうが無いということも起こります。
でも、よく考えてみると、まず第一に、自分の人生は自分と家族のものであり、他人の評価や言ったことで左右されないという強い気持ちを持つことです。そして第二に、自分で自分の人生をどのように過ごすか、なにが自分の人生なのかを繰り返し考え、仮にでも良いから決めておくことです。
「自分の人生をどうするか、自分で決める方法」でもっとも簡単で現実的なのが「目標を決めないで、毎日、一所懸命に過ごす」ということです。実は、これは武田の人生そのものなのです。私は会社に入ってすぐ「この世の中は努力したから報われるとか、優れているから評価される」と言うことはないのだなと思いました。周辺を見てみると、努力しない人、優れていない人が評価されているからです。
そして、「自分はおそらく評価されないだろう。今までは学校だったから試験の成績が良ければ評価されるけれど、今後はそうではない」と言い聞かせ、自分を振り返ると、確かに一所懸命に仕事をしたり、計算が速かったりする点では優れているのですが、性格が少し強く、言葉も厳しく、我慢もあまりできないということがあり、きっと多くの人に好かれることは無いと言うことは自覚できました。
そうなると、一所懸命仕事をして、たとえ優れていても評価されない可能性が高いことになりますので、「何をしよう」とか「出世しよう」ということは考えず、「目標を持たず」、「ただ毎日、一所懸命やろう」と思い、「一所懸命やるのは他人から評価されるためではなく、自分の人生のために精一杯の生活をしよう」と覚悟したのです。
それからの人生はかなり楽になりました。毎日、自分なりに一所懸命にやることはできますし、その結果がどんなことになってもそれは承知の上ということですから、ストレスはかなり減りました。私が32歳の時でした。
でも、それまでの私は普通の人と同じように、「他人が評価することで満足する」(成績が良いとか皆が自分を褒めてくれるなど)というクセがついていたので、「他人が評価しなくても自分として一所懸命やればそれで満足する」という心境になったのは40歳ぐらいだったと思います。
その後も、周囲は私を誤解していました。あまりに一所懸命に仕事をするので、きっと出世したいという野心があるのだなと思われていました。だから私が49歳の時に急に会社を辞めて大学に行ったことにビックリされたものです。でも、その頃には「自分の人生は自分なりに一所懸命やればそれで良い」と心から思っていましたので、どこで仕事をするというより、毎日、一所懸命やれればそれで良かったのです。
でも、失敗は良くありましたので、時々、それを想い出しては苦しい思いをすることがありました。でもそれもやがて克服できたのです。それは「昨日、どんなに土砂降り(まずいことがあった)でも、昨日はもう帰ってこない。だから昨日は晴れ(すべてがうまくいった)と思い込もう。そして、今日、自分に朝がこれば今日一日だけでも頑張ろう」と思うことができるようになったのです。
この体験が私が色紙に書く次の言葉になりました。
「昨日は晴れ、今日も朝」
(平成27年9月11日)
Nov 8, 2015
12 min

人間が成長していく時、赤ちゃんはいつもニコニコしていて、何にでも興味を持ち、とても可愛い。普通に成長すると、10歳、つまり小学校4年生ぐらいまでは素直さ、明るさ、そして強い興味を持っている。でも、いわゆる思春期が来ると無口になり、反抗的になり、暗くなる。
思春期の子供は自分でも「昔はボクは明るかったのに、今はどうしてこんなになったのだろう」と不甲斐なく思う。
成長というのは一様には進まない。頭と体、内臓や筋肉、生理の発達はそれぞれが進んだり、遅れたりする。だから成長期にはアンバランスが起こり苦しむ。でも、20歳ぐらいになると段々、そのアンバランスがなくなり、明るく活発な青年に戻る。
このことと同じように社会の発展も途中でアンバランスになる。所得が増え、餓死する人などがいなくなると、生産が過剰になり、大気や水が汚れたり、大量に供給される食材に毒物が含まれるようになる。そして多くの人が不安に陥り、「大量生産すると環境が破壊される」と錯覚する。
有名は水銀で起きた水俣病の裁判の判決がその錯覚の典型例で、裁判官は「大量生産すれば環境は汚染される。だから過失がなくても汚染させた人に責任がある」という「環境汚染不可避説」をとって有罪にした。裁判官が文化系だったから、脱硝技術、脱硫技術など「大量生産しても環境は汚染されない」という事実を認識する力はなかった。
やがて、社会が成長を終わるとバランスが徐々に戻ってきて、「大量生産しても環境は素晴らしい」ということになる。ちょうど20歳の青年が輝いているようなものだ。
ところが、その頃になると「創造された環境破壊」が出現する。それが「リサイクルしないとゴミがあふれる」に始まり、「石油がなくなる」とか「地球が温暖化する」とか「異常気象になる」という類いだ。本当はそんなことはないが、専門家でなければ分からないことを利用して、脅し、税金や利権をとろうとする。
しかし、それも30年ぐらい経つと、すべてウソであることが分かるが、それでも脅され、洗脳された国民はなかなかその脅しから抜けることができない。そしてなんとなく不安を感じ、意味の無い分別やCO2削減などをやって暗くなる。
私はこのような科学的な間違いを直そうと、ずいぶん長い間、活動してきたが、人間の頭にインプットされた間違った考えは、簡単な事実も認めようとしないのでガッカリする。たとえば、「リサイクルしないと8年で廃棄物貯蔵所が満杯になる」と言われていたが、すでに25年たってリサイクルはされていないのに廃棄物貯蔵所は全く問題がない。50年前、「あと30年で石油がなくなる」といって大騒ぎをしたのに、10年前には「あと40年で石油がなくなる」と言い換えた。さらには、「石油は40年分しかないが、100年石油を炊き続けると温暖化する」という奇妙な説明がされても、それを奇妙に思わない。
石油は枯渇しないし、温暖化もしない。科学的には間違いないが、なかなか「温かい人生」の方に日本社会が向くのは時間がかかるかも知れない。
(平成27年9月10日)
Nov 7, 2015
11 min

このシリーズの最初にすこし触れたのですが、日本は所得、長寿、医療、安全、水、気候などどれをとってもほぼ世界一と言えます。そんな環境のもとで一生を送っているのに日本人には幸福感はありません。それどころか世界でもっとも「満足できない毎日」を送っているという驚くべき事実があります。
その理由は「幻想」で、その幻想の多くが「マスコミ、専門家、進歩的知識人、政府、官僚、一部の運動家」などが作り出しています。人間は大脳支配動物なので、頭が洗脳されると事実さえも打ち消されてしまうのです。ここまで「正しい」、「健康・・・日光浴の問題」、「私たちの歴史観」、「男女の問題」などに触れてきました。まだ「環境の脅し」や「教育、出世など」がありますが、かなりの反論があります。
反論すること自体が自分で考えるということですから、人生を幸福にしますが、ややマスコミの言っている通りに信じているという方が多いのでちょっと感想を書きました。
(平成27年9月8日)
Nov 6, 2015
12 min
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