「子どもの頃の感情の記憶」
うまく生きられなかったあの頃の感情の記憶です。
子供のころの感情の記憶
ぴよととんの子育て中であることはもちろん、演技のワークショップで小学生~中学生を間近で見る機会を得たこともあると思います。
つい最近蘇ったのは、「大人に質問されたとき」の感情。
これは、先日のワークショップで風邪気味で体調悪そうな女の子がいて、先生に「具合悪い?できそう?」と聞かれたんだけど何も答えず、先生もほかの子たちもちょっと困ってしまった、というシーンがありまして。
その場は、日頃から気配りができて女子力の高い中学生のお姉さんが優しくサポートし、「見学してる」という答えを本人から導き出してくれて収まったのですが。
私はといえば、大人なのに、ただ見守ることしかしなかったわけですが。
そんな自己嫌悪な感情もありつつ、ワークショップが終わって帰路につきました。
いつものように演技レッスンで得た充実度満点、目から鱗の内容を脳内で反復していると・・・、なぜかあの体調悪かった女の子の立場に私は入り込んでいました。
大人から、「どうする?」と聞かれたとき。
子供のころの私は、何も答えられませんでした。
なぜかというと、自分が大丈夫かどうか、考えても本当に分からないから。
このままやったらどうなるのか。やらなかったらどうなるのか。
先生は、ほかの子たちは、母親はどう思うのか。
・・・・そんなことをぐるぐる考えて。
普通なら、適当な見切りをつけて答えるわけです。
大丈夫かどうかは、医者じゃないし、子供だし、分からないのは当然で。
どうしたいか踏ん切りをつけて、「適当に答える」ことができるわけです。大抵は。
でも、私は、自分で言葉を使って発信することは、本当に正しくなければいけない、責任の持てることでなければいけない、みたいに多分、思っていて。
だから黙ってもじもじとしてしまう。
特に大人や集団に対して。
そこが幸いだったな。
そんなシーンを何回か体験しているのでしょうね。
自分の中の問題なのだから、外から見て正しいかどうかなんてないはずなのですが、そこまでは分からなかった。
先生から、みんなから、親から、そうだね、正しいね、と思ってもらえる答えを言わなきゃ。
自分を適当に発信することはいけないことだと思っていた。
あ、今回のワークショップのあの女の子は、私とは違うと思いますけれどね。
大人になって、やっと、良い意味での「適当」の大切さが分かるのです。
一つ思い出した。
小学校5年生ぐらいのころ。
「普段どうやってたたんでいるか、前に出てきてやってみて」と先生が言い、私を含んだ数名が当てられて、みんなの前に出たのです。
もちろん、私は自分でいつもやっているたたみ方がありました。
ほかの子は適当にたたんでスムースにこなす中、私は白衣を持ったまま、どうしてもたたむことができなかった。
私だけ教壇に残され、みんなが「できないの~?!」とざわつき始めます。
業を煮やした先生が「もういいよ。普段やっていないとできないんだぞ。いつも丸めて入れてんのかー?家のお手伝いとかしないんだろー。」とか、ちょっと冗談めかして言い、私は席に戻ります。
みんなが笑う中、私はニヤニヤするしかない。
いや丸めたことなんてないし。
家の手伝いするし。
という思いの中。
悲しかったけど、悲しさを出してしまったらまたそれがクラス単位で問題になってしまう。
それはごめんだから、ただニヤニヤして、ほとぼりが冷めるのを待つ私。
当然先生からは「引っ込み思案」「自分では何もできない」「いつも人の影に隠れている」「お母さんは甘やかしすぎなのでは?」と評価され、通知表にも書かれるわけです。
今考えると、どうしようもなくアホですね。
それぐらい分かっているだろうに。
このエピソードをはっきり覚えているということは、自分なりに精神的ショックが大きかったのかもしれない。
こんなことを思い出したから、どうってわけでもないのですが。
大人になった今、子育てをする今、子供に触れる機会の多い今、

